イメージ・フォーラム・フェスティバル ディレクター 澤隆志さんに聞く

―お久ぶりです、中岫です。本日はよろしくおねがいします。

まず、澤さんと私の最初の出会いを話したいと思います。私が所属していた東京ビデオフェスティバル(TVF)事務局は、『イメージ・フォーラム』主催のサマー・スクールに協力団体としてビデオカメラを貸出していました。その担当者が澤さんでした。実験映画・ビデオアートというジャンルは、私にとって非常に遠い存在で、正直今でもよくわかっていません。しかし、このインタビューに澤さんをトップバッターに選んだ理由は、私がTVFに来て一番初めに対外的に関係をもった人であり、また映像祭の意義を私に提示してくれた人だからです。2001年澤さんは、『イメージ・フォーラム・フェスティバル』で上映する緒方篤さんの『グランド・ゼロ』という3面構成のインスタレーション作品を発表しようとTVF事務局に相談に来られました。上映するには3台のDVDプレーヤーが必要で、どこのメーカーでもそうですが、販売する商品はあっても、レンタルする商品はありません。また、高価だったDVDプレーヤーの貸出しは、社内的になかなかコンセンサスを得られませんでした。しかし、澤さんの熱心なアプローチに心を動かされた私は、事業部を説得し、商品を借り、新宿パーク・タワー・ホールの会場で作品公開に協力することが出来ました。そんな澤さんの作家さんを大事にするというか、応援するというか、作家が作ったものを上映したり、公開したり、発表したりする場を必ず確保するという強い信念に、「映像祭の本来の目的は作家のためにあるのだ」ということを実感させられました。
そんな、澤さんに私が以前から疑問に思っていることを素直に聞いてみたいと思います。

―率直な質問です。実験映画とはいったいどのようなものでしょうか。

澤 隆志(以下ST):映画は産業のため、言い換えればそれを見る市民のためにあり、実験映画は(産業と)表現のためにあります。それはどちらか一方にあるのではなく、両方にあるものです。特に“表現”のための映画こそ、実験映画であり、ビデオアートであると思います。写真家・写真評論家の港千尋さんは、「メディアは2回誕生する」と述べています。たとえば、1度目はビデオカメラが開発され、商品になったことで、広く市民にいきわたること。2度目は、それを使って消費のためではなく、“表現”のために使われるというのが2度目の誕生です。メディアは記録だけに使われるのではなく、“表現”のために使われるのです。新しいメディアが新しくなったゆえに、新しい表現や今までにない作品が出てくることが自分にとって非常に楽しみだし、また自分が作ったかのような錯覚を覚えたり、自分でも出来るような気がします。さらに、新しいアイデアを共有することで、それに参画しているようにも感じます。。シンプルかつ今までになかったような正解のないものに対して、あれも出来るかも、こんなことが出来るかもなど、自分もあれこれ考えたくなることが面白いし、自分もそれを試みています。

―『イメージ・フォーラム』との出会いは

ST: 96年ころイメージ・フォーラムのワークショップに通っていて、そのままお手伝いをしているうちにメンバーになりました。まだ四谷にあった96年頃は、ノンリニア前夜でまだTape to Tape でS-VHSなどが主流でした。その中で、デジタルビデオをPCに取り込んだ作品などが作られ始めてきて刺激を受けました。ノンリニアになって制作費用も下がり、制作の仕方や技術のハードルも下がりましたが、それ以上に考え方がまったく変わりました。今では当たり前になったノンリニア編集は、楽器のようなノリになって、ギターとベースがセッションをして、音をその場で出し、喧々諤々しながら作品に仕上がっていくのと似ています。たとえば、ドラマなんかもあらすじなどおおまかで、配役や役柄もうすく説明し、生で何パターンかやらせて、それが作品となっていくようなものです。2000年頃のアートというと、映画の教育を受けていない人や美術家、学芸員も映像をつくるようになりました。プロジェクターもよくなり、部屋に映像を画面いっぱいに投射するとか、上映のやり方もどんどん変わっていきました。

-イメージ・フォーラムの魅力とは

ST: 批評の空間。自分にとって凄いアイデアでも、ほとんど100%近く他の作家に試みられており、そういう作品は見ておかないといけないし、そんな作品群がイメージ・フォーラムにはライブラリーとして保管しています。それを強制的に見せる。初めはわからなくても、後でわかるようになればいいと思う。
山形ドキュメンタリー国際映画祭、広島アニメーション国際映画祭などすみ分けではないけれど、それぞれカラーがあるのは当たり前。イメージ・フォーラムは、ジャンルからはみ出したもの、何かにトライしている作品を評価し、アニメだろうと、ドラマだろうとジャンルはまったく関係ありません。島袋道彦氏は、「仕掛ける作品、コミュニケーションの新しい道筋のために作品をつくる。アート映像は正解を求めるのではなく、素敵な間違いを発見する。パっと一目見てわかるものではなく、何かへん、おかしい。何か気になる、そういった作品が輝いて見える」と言っています。

その他には、海外での上映機会の橋渡し、一番新しいものを見ることができるという映像のアンテナショップ的要素、入賞作品の全国巡回上映やイメージ・フォーラム主催の上映会等で作品を上映することもあります。

―長年映像祭を継続していくには新しい試みが必要です

ST: 今年、審査のやり方を変えました。上映会のまえに事前に作品を見ていただいて賞を決めるのではなく、審査員の先生には、ノミネート作品21本を、上映会会場で観客と一緒になって見ていただいて、映画祭に参加してもらう方法をとりました。たくさんの人と作品を見ることにより、上映空間を共有したり、映画祭の雰囲気を感じてもらうことも必要だと感じていました。そして、最終日に審査員の話合いにより賞を決定しました。

―今回の大賞作品について、

ST: 構図。脱力した感じ。シリアスでなく、突然人が死ぬ。パフォーマンス。広角・望遠を使い分け、フレームの外と中など映像・レンズの力を信じていること。そして音がよく考えられています。

―わたしは、特に船のシーンがよかった。移動しているのか、動いているのかわからない。疾走感や波の揺れ、風力感がまったく感じられず、本当はどこかの岸壁や埠頭で、船上シーンを撮っているのかと思いました。

―イメージ・フォーラム・フェスティバルの意義は

ST: 映画は(テレビでも、ビデオでも、映画館でも)たくさん見ることが出来ますが、実験映画やビデオアートは一般にほとんど見られないし、見ることができません。名前がついていないもの、キャッチコピーがないものに人はびっくりします。そんな映像を見たい、見せたいというのが『イメージ・フォーラム・フェスティバル』の役割です。
また、一般映画は観客と監督は明確に分かれていますが、短編映画の場合、観客が翌年には映像作家になっていることもよくあります。(イメージ・フォーラム・フェスティバルは規定が30分以内)
実験映像やビデオアートは、万人に向けて作っているわけではない。だから徹底的に嫌いだ、許せないという作品もたまにはあります。しかし、それでいいと思う。映像はアイデアがダイレクトに見えるし、伝わる。日本人しかわからないと思われるものに外人が反応しています。また、最近の若い人は、正しい答えを探しに行きがち、分らないことは、分らなくてもよいのでないか。そんなことを訴求していきたい。

―それにしても、上映作品が国内、海外、内容も多岐にわたっています

ST: 今年102本を上映することができました。作品を集める方法は、海外の連携している映画祭、たとえば、バンクーバー映画祭、ロッテルダム映画祭、ベルリン映画祭などの視察。映画祭からの直接オファー。今年は、ベネチア・ビエンナーレからプログラムを依頼されました。イメージ・フォーラム出身の作家からの情報も貴重です。よく同じプログラムに入れられる海外の作家がいるとか、先月行った映画祭で、こんなクレイジーなアメリカの映像作家に出会ったとか、海外での体験や情報を持ち帰り、教えてくれたりしています。

―今でも、かわなかのぶひろ先生や鈴木志郎康先生たちが作品を作り続けられている

ST: 1960年代から活躍した人が今でも作品を作り続けている。彼らは毎年個人で作品を作っている。予算はないが、時間の制約もないので、自由に作り続けることが可能です。それが重要だし、ひとりの作家を何十年も追い続けることも大変意義があります。

後記
10年来のお付き合いもあって、1時間以上のインタビューも、今後のTVFのことや私自身の活動について話した時間が半分以上あった。インタビューの途中にプロデューサーの富山加津江さんが来られて大変緊張した。
澤さんと話して、イメージ・フォーラムさんのやっていることがわかったし、なおかつ、私の大きな発見は、「他の映画祭では絶対に大賞にならない作品を最高賞として評価することが、その映画祭の個性になる」ということだ。要は、みんなで同じ作品を選んでも意味がないこと。映画祭は、独自のコンセプトを持ってしっかり作品を選んでいれば、それが十羽一絡げでない、他の映像祭との差別化になり、強みになるからである。
                                  2009年8月13日 イメージ・フォーラムにて