追悼・感謝 大林宣彦さん

2020年4月10日映画作家 大林宣彦さんが亡くなった。82歳だった。数年前より自分は肺がんを患っていることを公表していたが「ついに来るべき時が来てしまったか」と天を仰いだ。

映画俳優や映画制作スタッフでなくても大林さんと接したことがある人間なら誰しも大林さんの言葉に影響を受けない人はいないだろう。幸運にも私は、日本ビクター株式会社が1978年に開催した『東京ビデオフェスティバル』(2020年現在はNPO法人『市民がつくるTVF』にて継続中)の事務局員として10年間(1999年〜2009年)携わり、審査委員の大林さんに年に一度、“映画”ではなく、“ビデオ”について学ぶ機会を得た。『東京ビデオフェスティバル』は、まだテレビ局や映画制作者など、いわゆるプロと言われる特定の人々しか映像作品をつくることが出来なかった時代に、誰もが自由に使いこなせる生活の道具“ビデオカメラ”を使って、自分の思いや意見を映像に託し、作品を通じてコミュニケーションを広げることを目的とした映像祭として産声をあげた。コンセプトはプロ・アマ、国籍、年齢、性別を問わず誰もが参加できる自由参加型の市民ビデオの祭典だ。作品は、一人ひとりの意見や考えを発信する“自己”表現が根幹にあり、個が尊重される。作品は自己表現である以上、優劣をつけ難い中で、大林さんや映画監督の羽仁進さんや小説家の椎名誠さん、2018年にお亡くなりになったアニメーション映画監督の高畑勲さんたちが、審査委員会において、あたかもそれらが自分の作品であるかのように推薦する。喧々諤々と議論する風景は、一個人の個と個のぶつかり合いであると同時に哲学者同士の対話の様相を帯びていく。深く、広く、そして裏の裏まで作品の本質を掘り下げていくそれらの場は、どれだけ自分の糧の一部や座右の銘となって身についただろうか。私が影響を受けたことをご紹介して、お別れと感謝の言葉に代えたい。

<ビデオとは何か?>
2005年2月19日に開催された発表・表彰式では、自分にとって「市民ビデオとは何か」という答えが明確になった記念日として記憶に残っている。羽仁さんから「TVFについて何か質問はないか?」と来場者に問いかけたところ、恵比寿『ザ・ガーデンホール』の大会場の後ろの席から一人の女性が挙手し「TVFは20分以内であれば、テーマ、題材は自由という規定がありますが、私たち素人は、テーマやジャンルが決まっていたほうが作りやすいので、ぜひ“テーマ”を設けて欲しい」という市民ビデオ作家の切なる声だった。確かにプロとアマの隔てがなく、また小中高生やシルバー世代が同じ土俵で競う『東京ビデオフェスティバル』は自分が参加する以前からそのような声が続いていた。自分もTVF事務局に入った当初は、理念は理解できるものの何か心に引っかかっていたことも事実だった。そこでその回答を引き受けた大林さんは「作品のテーマや題材は他人から与えられるものではなく、自分の心の中にあるものだ」と返答した。自分の心に耳を傾けてみれば自ずとテーマやモチーフが見えてくるということと理解した。まさしく、市民ビデオとは、自己の内面に深く根ざしたものであり、個の発露である。応募規定は、個を縛るものではなく、テーマ、題材は自由として、すべての人に開かれたものでなくてはならないという根源的な価値観を表していた。

<自分の殻を根底から壊す>
自分の悩みを根底から覆してくれた一言もあった。自分は大のあがり症で、人前で話すことが苦手だ。57歳になった今も変わらない。それは周りの皆が知っている事実である。そんな自分に大きな転機が訪れたのも大林さんだった。確かTVF2007の審査会だったか、今では定かでないのだが、作品の評価の中で、「他人の真似をして上手くいくよりも自分らしく失敗しよう」という主旨の発言をされた。他者にとっては聞き逃してしまいそうな、さりげない一言であったが、私にとっては自分自身に向かって解き放たれた矢ように心に突き刺ささり、今でも生々しく皮膚感覚で覚えている。それ以来、その言葉は自分にとってフィロソフィになっている。自分の苦手なことでも一生懸命やり、その結果上手くいかなくても、それが自分なのだと言い聞かせ、自分の殻を壊していくように努めている。大林さんには普段の言葉であっても、自分にとっては生き方を大きく変えるほどの勇気の言葉だったのだ。

<名は体を表す>
大林さんは作品の『タイトル』を大事にする人だ。『タイトル』が内容のすべてを表すと言っても過言ではないほど拘っていた。作品の『タイトル』こそが、作者の込められた思いを体現するメッセージと捉えていた感がある。表彰式では入賞者になぜその『タイトル』をつけたのか尋ねることが多かったと思う。数々の自作映画を残し、そこには必ず『タイトル』があり、作者の思いが宿っているという当たり前の重要さを改めて気づかせてくれた。自分自身に当てはめると氏名がある。『中岫昭仁』の“中”は「まんなかや内部」“岫”は「山の洞穴や峰」という意味があるらしい。すなわち、祖先は、山の洞穴の中に住んでいたというとか。次に名前を辞書で調べると“昭仁”の“昭”は「世の中が明るく治まる」という意味で、“仁”は、「おもいやりとか慈しみ」という意味だ。つまり、思いやりと慈しみで世の中を明るくする人間になって欲しいという親の願いが名前にあると感謝した。ペンネームの『仲 映人』は、「映画や映像と通じて人と人を結びつける”仲人(なこうど)”になりたい」という思いでつけた。自分の名前を真剣に考えるようになったのは大林さんと出会ってからだ。今では1枚も残っていないが“中岫さんへ”という心が通う独特の文字で書かれた原稿のFAXを大事にとっておけばよかったと後悔している。

本文は、大林さんの敬称を“さん”づけにしている。これも審査会での出来事だったが、発表・表彰式の台本の中で「審査委員の呼びかたを“先生”でなく、“さん”づけにしませんか」と提案したのが大林さんだった。現実社会には間違いなく権威は存在するが、このビデオの世界の前では、われわれ審査委員も、権威や専門家としてではなく、応募者・作者と同じ一個人として話し合い、語り合い、交流しようではないかという主旨に一同賛成し、それ以降TVFの発表・表彰式では“さん”づけが一般的になっているので、恐れながら準拠した。また、現場を担当していた自分の反省と戒め、そして初心を忘れないため記述するが、表彰式で記録係りのビデオカメラマンが”良い絵”を撮ろうと客席の参加者の視線を邪魔していたことに気づいた大林さんはそのビデオカメラマンを怒り飛ばしたこともあった。あくまで主役は壇上の自分ではなく、作者であり、参加者(観客)ファーストだった。もっと過去にはこんなこともあったそうだ。審査委員が壇上で胸に花をつけていたが、大林さんは花をつけるのを拒否し「花をつけるのは審査委員ではなく、作品を作った作者である」と自ら花を外し、それに呼応して全審査委員が花を外したというエピソードだ。そんな話は枚挙にいとまがないが、大林さんの人柄や人間性を匂わす逸話である。合掌。

P.S.
あるとき大林さんの成城の事務所に行ったときに、思い切って聞いてみた。映画に興味を持ち始めた頃、イタリアの大女優ソフィア・ローレンさんが原動機付自転車のCMに出演されており、そのCMを演出したのが大林さんだ。私の母はソフィア・ローレンさんのギャラが、どこで仕入れたのか知らないが100万ドルだと言っていた。子供心に当時の1ドルが300円だとすると日本円にして3億円になる、すごいなと鮮明に記憶していた。その話を確かめてみると「それはちょっと大げさ過ぎるな、そこまではいかないと思うよ」。今でいうところの盛った話だと明らかになった。これまでの心の霧も晴れ、スッキリした。そして「ラッタッター」の演出はこんな発音だよと教えてくれた(文章にしても表現できないし、違いも微妙で正直よくわからなかった)。この追悼文を書くにあたって調べて見たのだが、今の今までずっとソフィア・ローレンさんのCMは、ヤマハ発動機(株)の『パッソル』のCMだと思っていたのだが、実は“ラッタッター”で有名なバイクは、『ホンダ・ロードパル』(本田技研工業(株)1976年発売)のCMだったのだ。おそらくなんの躊躇いもなく、「ヤマハ・パッソルのCMは・・・」と尋ねたはずだ。今思うとただただ恥ずかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。これも自分らしい失敗と許してくれれば良いのだが、今では確認するすべがない。

2020年5月

出典:Asmik Ace https://www.youtube.com/watch?v=tiedsOxGgXE&t=9s