石内尋常高等小学校 花は散れども

―売れない脚本家が、恩師や仲間との再会を通じて、一人前の男として成長していく物語というよりむしろ―

" 赤いポピー 花言葉 『感謝』 "

(C)2008「石内尋常高等小学校 花は散れども」製作委員会
出典:公益財団法人ユニジャパン

11月3日の誕生日が同じという理由から日頃より親近感がある柄本明は、この映画の心棒の役割を担っている。売れない脚本家、山崎良人(豊川悦司)は、恩師の市川義夫(柄本明)の定年祝いを契機とした広島での謝恩会(同窓会)に参加し、30年ぶりに昔の仲間と再会する。居眠りばかりしていた森山三吉(六平直政)は村の収入役に、良人に心を寄せていた藤川みどり(大竹しのぶ)は、料亭の女将となっていた。

子供のころ、頭はよかったけれども、粘りのなかった良人は、脚本家の道を志すもなかなか大成せず、鬱積とした日々を過ごしていた。謝恩会では、昔の仲間たちがそれぞれの原爆体験を語り、その悲惨な体験と暮らしぶりを聞かされ、良人はこれまでの生活を恥じる。

新藤兼人が主張したかったことは2点だ。ひとつは、いじめや校内暴力などといった教育現場の崩壊をたて直すには、生徒を教える先生が教育者としての自覚や覚悟を持つこと。もうひとつは、一人ひとりの人間が、出会いや別れの体験を通して、自立し、生き抜いていく力を持つことである。

たとえば、この映画に何度も出てくる校歌を斉唱するシーン。市川の妻であり、教師でもある道子(川上麻衣子)の指揮の手振りには、その時代の先生の役割は、生徒を正しい方向に導き、先生の言う通りにしていれば決して間違いがないという確固たる自信の表れだと解釈する。

また、この映画を観たあと、心に残ったことは、売れない脚本家が、恩師や仲間との再会を通じて、一人前の人間として成長していく過程よりもむしろ2人の女性がスクリーンの中で確信的に、強いふるまいを演じたことだ。川上は、指揮による手振りで映画的な身体運動を示している。もう一方にいる大竹しのぶはいかにして映画的な身体運動を示しているか。謝恩会の席上、良人にあいさつの順番が回ってきて自己紹介をするときに、みどりは大きな拍手をして良人の出番を促した。ここで大竹は、拍手によって人を先導する手振りを演じていた。さらに、みどりは海岸で良人と結ばれるときに、自らの手で良人の手を自分の秘部に押し当て、積極的な身振りで男女関係に導く。

さらに、女性たちは力強い身振りを演じている。みどりの旦那が大阪でやくざに殺されたと聞き、良人がみどりに結婚を申し込み、料亭の主人になると言いに広島に戻ったときに、みどりは嬉しいと思いながらも海岸のベンチに座る良人に、何度も何度も足で砂をかけ、自分の夢を諦め、みどりと暮らそうとする良人の優柔不断さに、足で砂を蹴ることで怒りをぶつける。

そうであるならば、川上が足を使うシーンはなかったかどうか振り返らなければなるまい。きっと川上にもそうしたシーンが用意されているはずだ。それは誰にも気がつかれぬよう周到に準備されていたかどうか定でないが、市川が道子との結婚式で、翌日の授業を自習にしようと良人を式場に呼んでその旨を伝えた後に、花嫁道子は文金高島田と花嫁衣裳を着ているにも関わらず、懸命に自転車を自ら漕いで学校まで疾走し、安易な市川の考えを止めようとする。ペダルを漕ぐために花嫁衣裳に囚われた足を使い、男の愚考を止めさせようとする動作を認めたときに、二人の女性が手や足でスクリーンの表層に刻んできた振る舞いに映画的な感動がある。

最後に言い添えたいことは、この映画の中で、校歌を斉唱するときは必ず別れの儀式を伴っている。謝恩会の解散、市川が脳梗塞で倒れて娘夫婦の家で世話になる引越しのエピソード、市川の墓参りのシーンでは当然校歌が歌われる。家族の別れが写真を撮ることで映画的に意味づけされているならば、学校での別れは校歌を歌うことで儀式化されている。ならば、この映画はまさしく歌うこと=別れることの規則性にしたがった映画と言えるであろう。。

2008年11月