法政大学映画祭2010
『分己点』
法政大学国際文化学部教授の岡村民夫氏から法政大学映画団体協議会が主催する『法政映画祭』の審査員をやりませんかと連絡があり、二つ返事で引き受けた。審査の重責は度返して、純粋に大学の映画研究部が作った“映画”を見たかったし、私も30年前には映画研究部で8ミリ映画を制作していた同志でもあり、ある種の連帯感を感じたからだ。
”映像祭”ではなく、”映画祭”。しかし、出品される映画は、全て“映画”ではない。基本的に法政大学の学生がつくる作品は一部の8ミリ映画を除いては、ビデオ作品である。しかし、彼らがつくる作品は“ビデオ作品”ではなく、りっぱな“映画”だった。それでは、映画とビデオの違いはいったい何なのか。私が考える映画とビデオの違いは、ビデオは自己の内面を表出し、映画は他者の外面、つまり役者の表情や身体を表現するものだと思っている。映画は作り物によるリアリティを追求する装置であり、ビデオは隠しても隠しきれない人間性を抉り出す発見器である。今回『法政映画祭』で見たビデオ作品はすべて監督と役者とスタッフたちが綿密に計画して完成した作り物の映画であり、個の内面を表出するまでに至っていない。どちらが良いとか悪いとかいうものではなく、これが映画とビデオの大きな特徴のひとつだからである。
2010年6月27日(日)法政大学富士見坂校舎 ステラビアホールにて開催
【入賞作品講評】
『さよなら、イエスタデイ』 (三田 将 監督)
きっとどこかに二人の女子学生のような関係性やシチュエーションが存在すると思われるのだが、そんなどこかは深く詮索せずに、エンターテインメントな同性愛作品として映画を楽しんだ。
めがねをかけ、いつもビデオカメラを持ち歩く冴えない女子学生桃子とカッコよくたばこをふかし、お酒も大好きな遊び人沙耶との関係を、9月23日の夕方から9月26日の朝までのドラマの中に、2つの回想シーンを織り込み、映画的な空間をつむぎだし、また月日の流れを無駄なく的確に表現し、どんでん返しとして披露する。
さらに、桃子が携えるビデオカメラが果たす役割は、沙耶をひきつける道具として機能していたし、観客への仕掛けとしてたばこをさりげなく活用したり、日時の設定を注意深く積み上げ、誕生日プレゼントを後悔と反省へと導く重要な小道具として提示したり、監督がやりたかったことは明確に伝わっている。監督はかなりの映画勉強家だと確信した。
ただ残念なのは、テーマである女性同士の『嫉妬』や『愛情』を、朝帰り、深夜の訪問、授業の代返、使い走りというような定番表現に依存したのが物足りない。テーマをステレオタイプに表現することはさほど困難ではないが、目に見えないテーマを映像表現するのが映画作家の果たすべき役割で、そういった意味では、『男遊びを止めさせる』ための罠としての『レイプ』は、すこし短絡過ぎる。映像表現の物足りなさは、たぶん桃子が生まれも育ちも違う沙耶との価値観の違いや極端に異なるお互いの行動の中で精神的に病んでいき、女性にはあるまじき行為に至る過程や身振りを描ききれなかったのが原因ではないかと思う。
そうはいうものの、魅力的な二人の主演女優のガンバリを引き出した監督の手腕と女同士の約束ってどんなものだろうか?と考えさせるラストは面白いと思った。
『大学時代』 (伊藤 謙太郎 監督)
映像+文字-音声×人÷言葉etc=映画。映画の方程式の答えはひとつではない。つまり、映画の読み解きや解釈は個人の見方や考え方で大きく変わっていくが、それがとてもやっかいであるけれども面白い。映画の魅力は、大きなスクリーンを前にして、自分の中のもう一人の自分と対話すること。伊藤謙太郎監督は、戦略的に8ミリカメラを対象に向け、画面を切り取り、フィルムをつなぐ。『大学時代』は、映画の表層を、深くそして広く押し拡げようとする挑戦的な作品だ。映画は映写機で投影して鑑賞したい。8ミリ映画もまた例外ではない。
『分己点』 (二見 俊輔 監督)

カメラの撮影技術に秀でている学(まなぶ)は、他人を思いやることができない自己中心的な性格が災いして、彼の所属する『Camera Making Club』の仲間からは疎まれている。そんな学でもゼミの友人ケンイチは、学のことを気にかけていた。帰宅途中の電車の中で眠ってしまった学は、一枚の写真から発する光を通して並行世界=パラレルワールドに入り込んでしまう。その世界には、もう一人のマナブが同じ時空で暮らしていた。
「他人のふり見て我がふり直せ」のことわざにあるように、『分己点』はタイトル通り「自分のふり見て我がふり直せ」という、一人の自分がもう一人の自分を見ることによって『気づき』を促す。まさにレンズを通して自分もしくは他者を見ることにほかならないビデオ的な要素を持つ映画である。そして、『気づき』=『学び』というテーマを体現した主人公学は、まさしく映画の中心であり、その名前はズバリ映画のテーマをも表している。
また、学=マナブのコスチュームを、現実の学にはグレーの上着を羽織らせ、もう一人のマナブには黒色の上着を着させて分別し、物語を展開させている。グレーは黒と白が混じりあった色で、人間の多様性を表す意味であると解釈した。つまりグレーは、他者の気持ちを察して手助けする心とは裏腹に、自分勝手に振舞い他者に迷惑をかけてしまう同一人間の本質を、単に主人公の識別記号としてではなく、2面性や2元論に集約しないよう色設計をしたのではないか。
現在、勢いで一気に見せる映画が主流であるが、このように複雑に絡み合う物語では、脚本段階から細部を丹念に練りこむことが大切である。表現のわかりやすさにおいて改善の余地は残るが、物語を破綻なくまとめあげた監督の力量を評価したい。
今後の作者の活躍を期待するにあたり、ひとつだけ最後に付け加える。暗室のシーンから始まるこの作品は、夜のシーンを多用し暗さが際立っている。さらに効果を引き出すためには、画面の階調や解像度を上げる必要がある。照明やカメラの性能によって格段にあげることができるので、夜の闇を積極的に取り込むのであれば、レンズの質やカメラの性能にまで充分関心を持って取り組むことが重要である。



