『緑の光線』

-映画は映画の何モノでもないことをこの映画で体験した-

" カキツバタ 花言葉 『幸せは必ず来る』 "

(C) 1986 – LES FILMS DU LOSANGE- C.E.R. COMPAGNIE ERIC ROHMER

湘南映像祭新聞に寄稿させていただく機会を得て、趣味で書いていた映画感想文をすこし発展させて、映画の見方や作品作りの参考になる視点でまとめていけたらと思っています。お付き合いよろしくお願いします。

第一回目に取り上げる作品は、エリック・ロメール監督の『緑の光線』です。湘南映像祭が連携している第3回鎌倉映像祭のテーマが「光・ひかり」と聞いて、すぐにこの映画を思い浮かべた。理想が高く、孤独なひとりの女性の夏の体験を日記形式で綴った作品。恋や男性が人生の目的ではないけれども、恋に恋する主人公デリフィーヌ(マリー・リヴィエール)は、心と体の空白を埋められないまま、夏のバカンスに突入する。

監督と3人の女性の撮影スタッフで制作されたこの映画は、今ではビデオカメラ1台あれば撮ることが可能な映画である。手持ちの16ミリカメラで撮影され、アドリブと即興演出で描き出す映像。南仏のやさしい陽光を自然のまま受けとめ、赤や青や緑の色をさりげなく意識させながらトーンを一定にさせる配色。日記の一部を丁寧に切り取るように紡ぎだす物語。不器用な彼女に振り回される人々のとまどいを浮き彫りにしていく演出。

作品を作るとき、主人公の生き方、考え方など目に見えない心の内面を映像に刻むことを映画監督は怠ってはならない。デルフィーヌは、バカンスをどのようにして過ごすか女友達と話していくうちに、心の内をさらけ出し、髪を掻き揚げるしぐさを繰り返すごとに情緒不安定になり、輪の中からはずれひとり孤立していく。また、主人公は行く先々で周囲に溶け込めず、居場所を失いながら流されるまま避暑地とパリの往復を繰り返す。一番初めに行ったシェルブールでは、友人の家族と食卓を囲み、食べ物を通して人生観について語り合うものの話は平行線のまま。子どもにまで別れた恋人のことを執拗に聞かれウンザリし、最後には言葉もろくに話せない赤ちゃんと遊ぶ始末。自分の考えを曲げずにコミュニケーションをとることの難しさを強調するシーンとして卓越である。さらに、海や山の自然と彼女の小さな思いを対比して、ひとりの女性の孤独感をあぶり出し、見てはならない心の内面を涙とともにスクリーンに定着させていく。

デリフィーヌは、スペイン国境の近くのピアリッツで、ジュール・ヴェルヌの小説に出てくる、かなり特殊な気候条件の時だけ見られる日没の一瞬に“緑の光”を見ると、自分と他人の心が読めるという老人たちの話を盗み聞きする。デリフィーヌはパリに帰るため電車を待つピアリッツ駅で、彼女に周波を送ってくる見知らぬ青年に自ら声をかけ、近くの小さな漁港へ一緒に行く。そこで二人はベンチに座りながら水平線に沈みつつある夕日を見る。二人は“緑の光線”を見ることが出来るのか。夕日とベンチに並んだ二人の切り返しショットを見て欲しい。観客である私たちは、その場に二人と一緒になって日没を見守りながら、緑の光を求めて画面を見続ける。つまり、映画を見るということは、スクリーンを凝視することにほかならない事実をひしひしと感じるのである。

2009年4月

出典:花伝亭仁消の「名画座すぷろけっと」 https://www.youtube.com/watch?v=nQAbnEB5cTw